2012年5月18日

円山まどかでした

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円山まどかです。

円山は自分がひとに怒れるようなご立派な人間ではないと自覚しているが、それでもどうしても許せないタイプというものが三つだけ存在するのである。
それは「茶碗に米粒を残すタイプ」であり、「自転車で道の右側を走るタイプ」であり、「風呂の湯に埃とかを浮かべて流さないタイプ」の三者である。

 

ちなみに三つめに関してだが、最近父のあと風呂にはいると皮脂がぷかぷか浮かんでいることが多く、親の老いを感じてちょいと切ない円山だ。老いなら仕方ない、といえば仕方ないのだが、ただ剥がれたらそれはもう「人体」ではなくて「残滓」なわけで、風呂桶に人体は浮かべるけど残滓は浮かべないでしょ、流しましょうよ、って話です。

いや、三つめはやや強引な気もする。嫌いのあいだになにか道筋をつけるべきか。かといってそれも強引でしかない。いっそ二者にするべきだったか。それもなにかキリが悪い。

 

てなことを、ブログはじめてこのかたずっと考えて過ごしてきました。頼まれてもいないのに。約一年ちょい。べつに漫画が専門でもないくせに、よくまあ一年やったものだと思うこの三日坊主が。
いや専門でないからこそ、はじめから一年とは決めていたわけだ。理由はいろいろあるけれど、面倒なんでここでは書かない(このブログこんなんばっか)。ていうか一年もったのも、よもやアルバイト時における「あと三十分で休憩だ」と類似の心理だったりするんだろうか。てえと読んでくれたひとに失礼な気がするが、長いようで、短いようで、やっぱり長いようで、いつのまにかこれを書いている。

 

きれいに終わらせるために三月ごろから伏線を張っておく手筈だったのだが、年度末に限ってやたらめったら忙しく、うっかりタイミングを逃してしまった。

ただ五月にはいって相方であるトケシが急に就職を決め、じゃあ最終回はそれで、って滑りこんだ具合だ。トケシが就職を決めてからはほぼライヴです。
だからなんだか終了が急に思われるし、正確には一年と二ヶ月になるわけだけど、一年もあればフリーターだった友人が就職決めちゃうし、親の皮膚は剥がれるし、現実なんてそう、急なものです。伏線の読める人生なんてそうそうないぜ、ハニー。
ま、とにかく。

 

てなわけでほぼ「素人がPhotoshopを覚えるブログ」と化したこのブログも今回で終わりだ。

レイヤーのつかいかたは最近覚えたばかりだったりする(遅いね)。はじめから漫画を描くつもりは毛頭なく、文字だけじゃ寂しいから「挿絵」でもつけようかしら、くらいの考えだったんだよ本当は。
おかげではじめのほうなんざえらいことになっている。あまり残しておきたくはない。

でも、「ただで読める読みものをひとつ作る」というのが当初の予定通りだったりするんである。
将来ネットインフラが代替わりして読めなくなるまで、ネット上に読みものが一冊転がっている塩梅だ。好きなときに好きなところを開いて暇を潰してもらえれば幸い。つうか下手すりゃ本より読者いるんじゃねーの(洒落にならなんな)。

 

ともあれだから、読んでくださった皆々様。本当にありがとうございます。
思いがけず多くのひとに読んでもらえた果報者のブログでした。円山は普通の男の子にもどります。いやごめんもどりません。普通になる前にまずは人並みにならないと。
相方もいちぬけたんだしね。

あ、それで思いだしたけどトケシも含め、勝手にネタにしちゃった地元のやつら。彼女でもできたらネタにされるんじゃねーかと戦々恐々としてたみたいだけど、もうネタにしようがないんでお好きにやれや。
ほんとに作れるもんならな。

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円山まどかでした。

2012年5月11日

木造モルタルの王国

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円山まどかです。
トケシではない。

そう、円山は円山であってトケシではないので、トケシの家がなくなろーがいってしまえば他人事なのである。
で、あるが、それにしてはなんだかもやもやするのも困ったことに事実だ。


トケシの家は川の近くに建っていた木造モルタルのアパートで、築二十五年とかであったかと思う。
一家はアパートが新築のうちに移り住んできたのであるから、その興亡を記憶する証人であったわけだ。隣室のドアに常時「忌中」と貼ってあった理由とか、上の部屋にだれか越してきてもが必ずひと月と持たず出てゆく理由とか、もしかしたら大家でさえ知らないスピリチュアルな側面までも知っていた貴重な一家なのである。
ファンタジーでいえば裏の丘に住んでて村がピンチのとき助言してゆくポジションというか、死ぬほど必要のないたとえで申し訳ないのだが、……つうか取り壊しもなんかの呪いだったりするんじゃね。


トケシはいま二十三歳。傷み過ぎてシャワーから火が噴き出たり、クーラーから火が出たりするほどの時間(実話)、そこに住んでいたわけだ。
人生のほとんどを過ごした家がこの世からなくなるというのは、どのような心持ちがするのだろうか。
円山はトケシではないのでよくわからん。


そういえばあんまり関係ないのだが、円山が子供のころ近所にわりとでかめの廃工場があった。
有刺鉄線を越えて侵入し、おふだのついたビニールをめくったら犬の死骸がでてきたり、敷地に落としたビー玉をみんなで探してたら覚えのない坊主頭の男子が一緒に探してくれてたり、いま思うと結構「アレな場所」だった気もするのだが(今回こんなんばっかりね)それがなくなって中途半端なスーパーになってしまったとき、友人たちとすごく凹んだ気がする。
他人事っちゃ他人事でも、子供のころから慣れ親しんだなにかがなくなる、というのはやっぱなんか寂しいものだね。


いずれにせよ実家がなくなった以上、トケシが転居先からこっちにくる理由も一緒になくなってしまったわけだ。
まさか友人に会うためだけに電車でやってきてどうこうするような、マメな性格ではあいつはない。ていうか家にいてさえも面倒くさがってピンポンに出ないものぐさである(そういうときは勝手にあがる)。
一年間ブログの相方として便利につっこんでもらっていたが、今後トケシと会う機会はほとんどないはずだ。


だからってわけじゃあまったくないが、このブログは次の更新で最終回だ。ていうかあと一回だけ、続きます。
亀仙人風にいうならば「もうちっとだけ続くんじゃ」といったところ。ああもうまたとくにする意味のないたとえで申し訳ないんだが、いや、だからって取り壊す予定はべつにないですけども。これも所詮他人事だと、適当に、気にしておいてもらえれば幸い。

円山まどかでした。

2012年5月 6日

哀愁の台湾バナナ

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円山まどかです。
え、トケシ? 引っ越したよさっさと。

もっとも新居は市内である。と、いうか神奈川の奥地にひっこんだような塩梅で、自転車で行けば一時間、電車ならローカル線に乗り換え一回。近いような遠いような感じで、途轍もなく遠いよりかえって億劫に思える。
引っ越しついでに遊びに行ったが、畑の真ん中にぽつねんと建っているなんか農具置き場のようなアパートで、とくに娯楽もないのでIKEAでもらったロウソクの火を吹き消す遊びをしているうちに夜が更けてしまった。ていうかみんなも火遊びはやめようね! 軽い一酸化炭素中毒を起こすよ!(いやマジで)
思わず命の火を吹き消すところであった。やだ。そんな死にかた。


円山は死ぬならバナナの皮で滑って頭を打って死にたい、とずっと前から決めている。死後仰天ニュースに出てみたいのである。そのための下調べもぬかりない。

現在流通しているバナナは残念なことに踏んだところで滑らない。
踏んで滑るバナナは、いわゆる「台湾バナナ」という品種なのである。これは明治の後期に日本に輸入され、輸入量が激減する第二次大戦をはさんで戦後ふたたび輸入されるようになった品種だ。
このバナナは生育の段階でわりと熟成させるので、バナナに特有のぬるぬるが強い。当時はバナナといえばこの台湾バナナが主流であった。時代に伴いバナナ界も変容してゆくなかで、バナナは滑るという部分だけが伝わったようだ。


そういえばそれで思いだしたのだが、トケシの理想の死にかたは「幽霊に殺される」であるのだそうだ。彼なりに細かいこだわりがあって、『リング』のようなショック死は論外らしい。
幽霊に惨殺されたい、とでもいいかえようか。彼に曰く、実体はないはずの幽霊がどう物理攻撃をしかけてくるのか。刃物で殺されるにしても幽霊がどのように庖丁を操ってくるのか、想像がつかないので死ぬ前にせめて見極めたいという。円山とおなじく幽霊がとても苦手であるはずなのに、これは見上げた探究心であるといえよう。


死にかた。いずれにせよ理想の死にかたを全うするには、やはり相応の準備が必要だ。みんな、してる?

どこで聞いたのかというと思いだせないのだが、しかし「一年に一回は遺影の写真を撮っておくべき」とはたまに耳にする。たしかに人間万事塞翁が馬、あしたうっかり死んでしまう準備くらいはしておいていいものだと思われる。
メメント・モリ。円山の祖父が死んだとき、わりとこまったのが遺影の写真の用立てだった。

そもそも正面、バストショットであまり不謹慎な表情をしていない写真(できれば無帽)。履歴書の写真じゃあるまいし、そんなつまらん写真好きこんではなかなか撮らない。
祖父の場合結局なにかの写真の背景をとっぱらってひきのばして使用したわけだが、おかげで解像度がかなり粗い。どこのどいつが作業したのかしらないが、なにやらパスが粗雑で困る。円山など写真があまり好きくないので、もしあした死んでしまった場合に最悪遺影不在のままだ。
たまに見かけるでしょ、ニュースなんかで写真がでてきたときプリクラか卒アルくらいしか写真のないひと。円山は中学の卒アルをつかうしかないわけだが、だめだ、あれ、なぜか満面の笑みである。しかもなぜだか傾いている。ほんとになぜだ。遺影につかうかもしれない危機感が皆無である。


ていうか。
ここまで書いて気がついたのだが、この文章が死の準備である、とかそういうわけじゃないので思いちがいなきよう願いたい。
たしかにここ最近の円山は死に気味ではあるが、それは頭痛と便秘と親知らずのせいであって、まだもうちょっとだけ死ぬには早い。先に述べたが円山は仰天ニュースに出たいので、これを遺書とするならもうちょっと気合を入れてネタになりそうなものを書きたい所存だ。
まああの番組って海外のニュースばかりなので、ほんとに出たいなら市内といわず海外にでも引っ越すべきなのかなあ……とか思わないでもない円山なのであった。(強引なオチ)


円山まどかでした。

2012年5月 1日

グルグル回る

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円山まどかです。
就職ですよ。就職。

 

なにしろもう五月である。ひとによっては就職なる単語、「見たくもないわ」と「すでに懐かしいわ」の二派に分かれるのではないかと思われる。
ちなみに円山前者である。このところ考えることが滅法多いくせしてちょっと就職のことも考えないとなーみたいな時期になっていて、家庭の事情とかまあいろいろあるわけだけど、なにもなくてもよくよく思えばいま二十二歳。よくよく思わないと忘れてるっていうのがすでにアレだが。

 

ところで。就職っていつがタイミングなのだろうか。

転職どき。こいつはよく耳にする。「向いていないな、と感じたら」「今後昇格が見込めないな、と感じたら」蟹のうまいところに行きたいか? ときかれたら」etc. の言説はべつに転職なんか考えていない(まあ就職してないので考えようがないんだけど)円山でも覚えているくらいだからよっぽど耳にする機会が多いんだと思う……電車のドアのとこについてるちいさいテレビとかで。
ところが、「就職どき」っていつなのよと思うとそういえばあんまり耳にしない。気がする。

 

学校とはタイミングを測るものさしとして優秀である。
いわずもがな、周囲がざわざわしはじめたらまず「就活どき」である。するとあとはもう流れだ。乗るしかない、このビッグウェーブに(切実に)。もちろん企業によるのでものすごく極端にいえば、大学を卒業するまでがいわゆる「就職どき」となる。
この時期へたすりゃ刺されそうだが、四月から募集、みたいな企業狙いでない人間がうっかり大学を卒業してしまうと在学中ほどの「いまだッ!感」がない。強いていうなら「\(^o^)/」ならある。こいつが\(^o^)/<すでに懐かしいわ」とかいいだすと手に負えない。

 

ところが我々「学…校……?」組は、すでに「/(^o^)\」であるのを見えないふりしてきたわけである。ついでに中途半端にフリーター時期が長かったりすると、「そこだッ!感」がほんとうにどんどん遠ざかる。いや、常に足もとにあるからこそかえって視野からいなくなる。

 

ちなみにトケシが就職を決めたのはこんなとこじゃあちょっと書けない事情が要因で、まあ孕ませたとかではないので安心していただきたいのだが、なんですね、知らないうちに水をあけられていた感じでこれはなかなか悔しいものがある。
こっちにもこっちの事情があるんでなにも足並み揃える必要はないのだが、そう、あらたまっていわれるとどうしてもいま「就職しないといけない理由」と等しく「就職しないでもいい理由」がないことに気がついた。
ことに円山なぞセールスポイントが「歯が丈夫」くらいしかないのであるから、基本的には新卒の年齢であるいまが就職どきなのではないか、と思わないでもないのである。そう思うとトケシ、事情が重なったとはいえちょうどいい時期に就職を決めたといえる。いやまあ餓鬼のころから決まってからものをいうやつだったのでわからないけども。

 

さて、話題が話題なだけにいつになくマジなトーンになってきた。
ゆとりゆとりとはいわれるが、ゆとり世代はいまこんな感じであって困ったものだ。ほかにもいろいろ悩みはあるから、頭はなんだかぐるぐるし、ついでに虚弱な胃腸もぐるぐるし、とりあえずトイレにこもっているうちにいつのまにか日が暮れていたりするいまいち煮えきらない最近なのであった。

 

円山まどかでした。

2012年4月19日

道化師の蚊

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円山まどかです。


作家はどこから着想を得るのか。
円城塔の『道化師の蝶』はそんなお話でした。こないだ芥川賞とったやつ(の怖くないほう)。そんなわけで円山は今後いわゆる「神が降りてくる」ことを「蝶を捕まえる」と呼ぼうと決めたわけだけど、こんなときにかぎって見事になにも思いつかない。手もとのメモには「麺」とだけ書かれているので、たぶん麺が食べたいんだと思う。食えよ。


にしても。たしかに気になるところではある。このブログ読んでるの身内ばっかりなんで半分私信だけど、どうやってお話考えてんスか。
そろそろ丸一年二冊目の本がでない円山が作家を名乗っていいものやらなにやらアレだが、あんまりいうとアレなんでそこはアレするとして、自慢じゃないがこの円山ちゃんと蝶をつかまえられたためしがない。
鱗粉くらいは嗅いでいるかもしれないけれど、円山の捕虫網がざるなのか「そうそう、これこれ!」みたいな出会いがないので困る。
たいてい「なんとなくできちゃった」てのがいつもの流れで、計画性のない男女のようだ。だからアレなんだよといわれるとアレだが、ともかくそのせいでブログの文章もなんかアレになっちゃったりする。
お筆先っていうと立派に聞こえる。でもあれは「筆先に神が宿っている」状態らしいからなんかアレ。計画性はたしかにないです。


とりあえず一行目を書いて、一行目を参考に二行目を書く。二行目を参考に三行目を書く、以下同文。毎回二次創作でもしている気分だ。
一行は半行を参考に。半行は四分の一行を参考に。なんだか円城塔みたいになってきた。じゃあ出だしはどうやって決めるのか。いやわからん。芥川賞作家が一冊かけて考えるようなものを訊くほうが無茶だわ。


実際、漫画みたいにただ寝転がってうんうんうなるってことも、じつはあまりないんである。
書かなきゃ思いつかないんだから、とうぜんだろう。あるとすれば起きているのがメンドいときだ。

さっきメモとか麺の話をしたが、そもそもそんなわけだから円山、あまりメモというものをとらない。まったくとらないといっていい。もちろんそこはそれメモ帳くらいは持っているけど、「二時に駅」とか書いてあるのでこれじゃメモだ。いやメモでいいんだけど。
その下に殴り書きで「045-671-3055」とある。べつに晒しているわけじゃない。かけてもいいけど横浜市水道局だよこれ。
そんなメモに「麺」だ。よほど食べたかったと見える。あとは白紙。前衛芸術かなにかか。いやメモだ。


というわけで、考えがなさ過ぎてどう終わらせたものやらわからなくなってきた。
と、そんな感じのいいわけもこのブログでなんべんもつかっている気がする。さっきから部屋を飛んでいるのは蝶ではなくて蚊みたいなので、着想を得るどころか吸われそうだ。たまにはしっかり落としてキメたいが、ぶっちゃけ考えるのが面倒なのでここらでおしまい。


円山まどかでした。

2012年4月12日

そこに音楽さえあれば(愛などいらない)

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円山まどかです。


そんなわけで、今日発売の『月刊少年マガジン』に、羅川真里茂先生の『ましろのおと』のノベライズを掲載いただいています。本編のうしろに載っかっております。帰省して早々恐縮でぶっ倒れそうですが、よろしくご覧いただければと思いますTwitterで書いた宣伝のコピペ)

で、打ち合わせで何度か月マガの編集部にお邪魔したのだったが、そのたびに飾ってあるフェンダーのムスタングにばかり目を奪われていたのだった。楽器オタクの性といえよう。


そう、円山は楽器オタクなのである。音楽オタクは数多かれど、意外といない楽器オタク。テレビや街頭で耳にする以外AKB48の曲をちゃんと聴いたことはないけれど、ディジュリドゥのCDは嬉々として聴く……そんな感じ(ディジュリドゥとはオーストラリアの先住民族・アボリジニが使用する笛。シロアリに食われて穴が空いたユーカリの木を再利用するロハスな楽器なのである!)

円山のなかの「うらやまランキング」において、「彼女がいるやつ」「彼女と一泊を過ごすやつ」「彼女と一泊してメイクラヴするやつ」さえも差し置いていまだに首位を独走しているのは、以前川原で会ったおっさんの「はじめて触った楽器がチャランゴだった」なのである(チャランゴとは南米アンデスの弦楽器。アルマジロの皮を使用するといういかにも民族色豊かな楽器なのである!)音楽があれば愛などいらない。


あと「そのおっさんは何者なんだ」という質問は受けつけない。円山もよく分かんないし。ただ、そのおっさんが尺八を吹いていたから話がはじまったわけで、楽器オタク同士は惹かれあうということだろう。
東京は御茶ノ水なんかの楽器屋にゆくと、ギターを爪弾きながら「やあやあお宅もですか、わたしも好きでねえ」と笑い合っている中高年のおっさん連中をよく目にする。その横で細君と思しき女性がつまらなさそおおおに目を細めている光景も定番だ。


まあ円山がいちばん弾いてみたい楽器って、やっぱり琵琶なんだけどね。えへ。同意を求める気はさらさらないが、琵琶ってどきどきしませんか。『ましろのおと』は津軽三味線のマンガだが、三味線に比べるとあの構造、弦高は異常に高いしどう考えても構えづらいし撥は杓文字の親玉みたいなでかさだしあえて「弾きづらさ」を追求しているようにしか思えない。
しかしその「弾きづらさ」と、弾きづらいがゆえに起こる(西洋音楽の観点から見て)「狂った」音律こそが、日本人の音なのだ。そう、民族楽器の面白さとは、楽器の構造そのものがその民族の本質を表している点なのである。
民族楽器を知れば、その民族を知ることができる。もちろん過言ではない。


たとえばハワイには「スラック・キー・ギター」というものがある。
楽器、というか奏法なのだが、通常「ミラレソシミ」と調弦するギターを、ハワイの人間たちは「ドソドソラレ」であるとか「レラレファ#ラド#」であるとか、好き放題スラックして(緩めて)弾いている。種類は100を優に超すといわれているほどだ。この奏法の発生には、じつは歴史的な背景がある。



カメハメハ大王3世の時代、ハワイには野性の羊が大量に殖えて農作物被害などが激増し、困り果てていた。大王は一計を案じ、羊の飼いかたにおいて秀でていたスペインから羊飼いたちを招き、時局の収拾を試みた。
ところがスペイン人たちは、昼間から飲むわ歌うわのドンチャン騒ぎ(このときの様子は、メルヴィルの『白鯨』に詳しい)。治安はやや荒れたが、ただ仕事だけはしっかりやって帰っていった。
そのとき彼らはハワイに、暇つぶしに持ってきたギターを捨てていったのである。残されたギターを手にとったハワイのひとたちは、基本的な弾きかたが分からない。であるからてんでにチューニングを発明し、自分たちの気持ちのいいように弾きはじめたというのである。


円山はこの話、山内雄喜『スラック・キー・ギター入門』(リズム・エコーズ)というわりとレア目の古本から仕入れたのだったが、なぜか検索しても出てこない。なので「スラック・キー・ギター」かなんかで検索してここにきちゃったあなた、これ知ってると楽器屋でちょいと自慢できまっせ。
まあ横にいる奥さんの「だから何だってんだオーラ」に耐えられればの話だけども。そんなときは仕事の告知で延々読者に分からない話をしゃべくり続ける、円山まどかという男を思いだしてほしい。

そんなわけでまたこんな機会があれば、次は「唯一固有の音色を持たない、ターンテーブルという楽器」(だから何だってんだ)について語りたと思います。えへ。


円山まどかでした。

2012年4月 1日

愚かになりきれない季節

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円山まどかです。

さて4月である。
4月。それは出会いの季節。半分ひきこもりの円山的には4月に出会うものなんて花粉くらいしかいないわけだが、みなさまにおかれましては高校や大学、会社など新たな場所での出会いに胸躍らせている方も多かろう。
そんなフレッシュな世のなかで、「いかにして他人を騙すか」ということばかりを考えている不健康な人間も一定数存在していることを忘れないでいただきたいヒヒヒのヒ(←笑い声)。

それにしても。過去22年の人生で、この日に嘘をついた記憶があるかというとこれが案外にない。
なにしろ円山は品行方正、勤勉実直で名の知られた人物である。よって他人を貶めて愉悦を得るなどという下劣なイベントには興味はないのだ。ありがちな嘘はさておき、単純に円山、嘘が苦手なのである。
笑ってしまうのである。いるんだよ、こういうやつ。なんかさあまるで素直でいいやつみたいだが、必ずしもそうとも限らないの。

そもそも円山という生き物は、基本的にへらへらして生きている。しょうもないことを吸っては吐いて生息しているのであり、嘘をつくにはここに難がある。
すなわち普段からお茶を濁してばかりいる人間が、いつもの調子でまことしやかなデマを流したところで説得力を持ち得ようか。
あるいは唐突に真顔になったところで、それがとりもなおさず「構えの姿勢」の様相を呈してしまい、ハナからバレるのではないか?
だいいち4月1日は相手方も用心している。以上のことから、円山のでる幕はない。

しかし4月1日というのは、かえって迂闊に本当のことを話せない日でもあるのだ。
今日はだれもが心に疑心暗鬼を飼っている。ひとの口の端にのぼる話題が、すべて嘘めいて聞こえてしまう。いまや世界のあらゆる者が、信じる心を失った愚か者ばかりだ。

たとえば地球には遥か三千光年の彼方から念波(サイコウェーブ)が絶えず降り注いでいることとか、その悪念波が人心に悪影響を及ぼし犯罪や戦争や悪政の原因になっていることとか、また、その悪の念波と同じように実は善の念波も降り注いでいることとか、しかし人心の不安のためにうまく受けとることができないでいることとか、善念波を受けとるためには「信じる心」を鍛錬することが不可欠であることとか、その鍛錬には善念波の発信源である宇宙の彼方の岩倉に御座します「素直様」に日に三度の礼拝を捧げることが効果的であるとか、これは真実である。だれが信じているのだろうか。ひとに話したところで「お、おう……」な反応が関の山で私は哀しい。

この文章を読んでいるあなたがたにおきましては、よもや信じる心を忘れていない素直な方々ばかりと思う。この「素直な生活教」に興味をお持ちになられた方は、ぜひ円山に連絡を寄越してほしい。いや怖いからやっぱりやめてほしい。
とはいえまあ、折よくも万愚節。信じる心があったところで、それはそれで愛すべき愚か者といえようか(読んでるの知り合いばっかなんで愚かっていっちゃうのもアレなんだけど)。嘘をつくほうもつかれるほうも、右も左もみんな馬鹿。そう、せっかくのブログでとくになにも仕掛けず山も落ちも意味もない保守的な文章を書くようなやつこそが、ほんとうの四月馬鹿なのかもしれない。

円山まどかでした。

2012年3月15日

22才の別れ

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円山まどかです。

最近やたら忙しくてすっかり忘れてたんだけど(※)円山、3月12日で22歳になっていたのでした。
でこれを区切りに考えてみると、半生って言葉はちょっと凄いんじゃないかなと思うのですね。
※ぶっちゃけその日は誕生日どころか締め切りでした。

 

半生って、あれでしょ。ようするに人生の半分って意味でしょ。あと何年生きるかなんてわかんないのに、「とりあえずここで折りかえし!」と決め打ちでかかるっていうのは、だいたい40の大人が半生語ったとして80には死んでやる、もうこの世に未練はねーぜっていうロッキンな感じがします。
うんまあ80ってそこまで潔い数字でもないよな?とこれ書いてからちょっと気づきました。ロケンロー。

 

ともあれその理屈でゆくと、22歳になったばかりの円山ってば半生語るにはいささか早い。

 

ここが半生と決めちゃうと44歳の年には死なないといけない勘定になるので、もうすこし長生きしたいなあとは思うけど同時に情けなく生きるくらいなら死んでやるぜとか思う餓鬼っぽいROCKもあったりなかったり。

 

それにしてもこの22歳っていうのは中途半端な気がする。割り切れるという点以外は。

22歳っていうともう「大人」であってしかるべきなんだけれど、「いい大人」とまでいわれる機会はそれほどなくて、どこかで「子供だから」っていう甘えもあって、場合によってはそれも通用しちゃったり。

 

で、22歳になってとうとう年下のAV女優が増えてきたのを契機にそろそろ今後の身の振り方とか考えてみようと思ったんだけど、よくよく思うと「大人」か「子供っぽい大人」になるしかないんじゃんと気づいて愕然とした円山ですわ。どう足掻いても「子供」にはもどれないわけで、じゃあ「大人」になるにこしたことはないんだけれど、どこかで失敗した場合「大人になりきれない大人」になっちゃう公算も高い。

 

よく思春期のことを「大人でも子供でもない時期」っていうけど、いまがいちばんそうなんじゃないかなあって気がとてもする。平成生まれ平成生まれってよくからかわれるけど、元年生まれのやつはみんな悩んでるので優しくしてくれ。

 

ともあれまあ理想をいえば、普段はいちおう「大人」でありつつ夜にはキレーなお姉さんに「フフ…坊やなんだから…」と優しくされたい円山です。

円山まどかでした。

2012年2月28日

気づいていこうぜ

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円山まどかです。
みなさんは、最近なにかに「気づいた」記憶がおありだろうか。


ずっと着ていた上着に内ポケットがあることに気づいただろうか。
焼きそばがどちらかといえば「炒めそば」であることに気づいただろうか。
「唾」という漢字の完成度に気づいただろうか。
どうでもいいけどこのノリそこまで面白くねえな。ということに気づいた円山であった。


ちなみに最近の円山の「気づき」といえば、「ОLの休憩時間と紙パックの相性のよさ」であった。いや恥をかく前にいいかえよう。たいして「気づいていない」のである。
21年生きてきた。もとい。3月で22年である。若い若いと周囲からは言われるが、22年といえば1990年にうまれた人間が22歳になるほどの歳月である(あたりまえか)。
22年間の総決算がОLの紙パックなのかと思うと、さすがに一抹の寂寥感を禁じえない。病気の少年に手術を受けさせる方法とか、君のために今何ができるかとかについて気がつきたい。ああまた適当なことを。



過去、円山の最大の「気づき」は「自分がアホである」ということだった。
ごめん! 相変わらず安直な自虐ネタだ。最近ネタと時間がないんでご寛恕いただきたい。


小2の時分のことである。
当時仲がよかった子にFというやつがいたのだが、なんというか、これが度を越したアホであった。どれだけアホかというと、マンションで1階のつぎの階が何階なのかわからない。で、そんなFと部屋が近かったというだけでつるんでいた円山、相対的に自分が物知りであるかのように錯覚してしまっていたのであった。



「ねえ円山くん、肉食ってなに?」「そんなことも知らないのか、アホだなあ。肉を食べるってことだよ」「草食は?」「ますますアホだなあ。草を食べるってことだよ」「じゃあこの雑食ってのは?」「えっと……雑草を食べるってことだよ」「円山くんって物知りなんだなあ!」いたたまれない会話だ。



こうして横浜にまたひとり、アホが一丁上がるのだった。ちなみに自分がアホである自覚を持ったのは、中学生になって学校の勉強に追いつかなくなってからのことであった。リアルな話ですまん。
しかし、中学校まで錯覚しつづけていたのだからFの影響力というより、もとより円山に才能があったのであろう。ちなみに自分がアホだと気づいてしばらくしてから、おなじアホなら踊らねば損、ということに気がついたのであったが長くなったのでまたの機会に譲りたい。



ていうかマンガとなんの関係もないよね。これ。ということにようやく気がついた円山なのであった。
円山まどかでした。

2012年2月13日

その先に見えるもの

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円山まどかです。あのさ正直に言っていい?
書くことない。

 


いよいよ2月14日である。ここはひとつ、バレンタインについてなにか一席書かねばなるまい。
いやまあ、たかだか個人のブログだ。そう厳密なルールがあるわけじゃ無論ないのだが、せっかくバレンタインネタで描いたのだ。どうせなら文章もそちらに合わせたいではないか。
が、いかんせんこの日にまつわるネタがない。あまりに無関係な人生を送ってきた。円山のなかでの2月14日の価値は、なんだろう、たとえるなら「みどりの日」レベルであり、なんならスルーしたところで一向に構わないのだ。
いま「スルーされてるのはお前だろ」とか思ってないか?



そも、円山は甘いものが苦手だ。
食べると胸焼けするんである。再三主張してきたことだ。本来なら「だからチョコとか嬉しくないし…」的な方面に話を膨らませたいところだが、ぴーんときたね。

 

円山のことを愛してやまない女子高生は、そう、もちろんいるのであろう。
しかしだ。円山の趣味を知っている以上、かえって迷惑になることを思うと行動できず、じっと胸の高鳴りを抱えているに相違ない。ほほえましい話ではないか。

 


まあもっともこの説、再三好きだと主張しているにも関わらずおでんをくれる女子がいないという点から論破されてしまいそうな気もする。
これを読んでいる女子高生の君は、このさい意中の円山にチョコの代わりにおでん種を渡してみてはいかがか。円山は魚河岸あげがたいそう好きである(※魚のすり身に豆乳を加えて練ったもの)。
話それるけど魚河岸あげの販売元・紀文のHPにある特設サイトではあの川原泉が魚河岸あげをテーマにエッセイマンガを描いていたりして驚く。愛されてんなあ。



さて、……適当に体裁はついた頃合いだろうか。
いま一度正直に言う。ごめん。限界。
とくにネタもないのにわざとらしく引っ張ることが、よもやここまで痛々しいとは。そんなわけで今回はもう終わりだ。みんな! いいチョコ食えよ!(へんなあいさつ)

 


円山まどかでした。

«大人たちの夕焼け

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